旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

私の中の本棚

この半月の間に村瀬学自閉症」と佐藤幹夫自閉症裁判」について5通の便りをしたためました。
自閉症についての知識のまったくない私ですから書評というようなものではなく、若干の感想を交えながら、これらの本の内容紹介を心がけたつもりです。
そのとき、本を読み終え、この本にはこのようなことが書かれていると私が考えていることと、再度本に当たって確認にした実際に書かれていることとの間には、かなりの隔たりのあることに気がつきました。
もちろん読み間違えや理解不足といったことはあるのでしょうが、そこには本を読むことの本質的な問題が横たわっているのではないでしょうか。


本を読みそれを理解するにつれて、その本についての世界が私の中に作られていきます。その世界では本の著者の文体は解体され、私が常日頃使っているそれに置き換えられます。本の内容がよく理解されているならば、その間に差違はないはずですが、それでもそれは不可逆的なものですから、比べてみるとどこか違ったものに見えてきます。


もうひとつの問題は、私の中の本の世界がコンパクトなものになってしまうということです。
1冊の本が簡単なひとつの結論を出していることはまれです。またはっきりとした結論を持つものばかりではありません。しかし私の中の世界では、私の心がそのようなことを嫌うのか、整合性のある単純なものになってしまいます。
本を読み終えた時点ではまだ曖昧なものや、理解できずにいる部分がふわふわと漂っているのですが、時間の経過と共にそれらは徐々に消えていきます。そしてそれは私の中の本棚に収められていくのです。


もちろん、これは読みっぱなしの本に関することですが、物書きではない私にとってはほとんどの本がこのようにして私の中に沈んでいるのです。
楽しみとしての読書ならそれで構わないと思うのですが、それではもったいないかなとも考えるようになってきました。