旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

無理ならぬことなのかも知れない。

放送された言葉の間違いについて二度ほど書きましたが、これらは消えてしまうもので、見つけたときに笑ってバカにして、それでおしまいでもいいのかも知れません。


しかし公刊された文章の中のそれとなると、後々まで残ってしまうものですから、ことは深刻です。そのために編集者や校正者がいるのでしょうが、その人たちがまったく仕事をしていないのではないか、としか思えない文章にしばしば出くわすことがあります。


呉智英さんは何度か「すべからく」の誤用について書いていますが、この誤用は一向に減りそうもありません。
呉智英さんのすごいところは、この語を誤用する人の意識の中に切り込んで、なぜ誤用するのかをつきとめていることです。そして、「すべからく」を誤用する人たちに共通する、ある党派性を明らかにし、それを批判しています。


始めて読む著者の本の中に「すべからく」の誤用があると、がっかりしてそれ以上読み進める気がしなくなります。好んで読んできた著者の本にそれを見つけたときには、数日落ち込んでしまいます。
確かに、それらの著者たちには呉智英さんが指摘する共通点があります。


新しい本ではないのですが、先月読んだ塩見鮮一郎氏の「浅草弾左衞門」にそれがありました。田中優子氏の「江戸を歩く」でこの本を知ったのですが、私の知らない語彙が散りばめられていただけに、余計がっかりしました。
全6冊の文庫本のうち、2冊しか購入していなかったことが、せめてもの救いです。*1


しかし、編集者という職業を選んだ人たちならば、例え呉智英さんの本を読むことがなくとも、「すべからく」の意味くらい知っていて当然と思うのですが、「顰蹙は金を出してでも買え!」と考え、あえて訂正しないのでしょうか。*2

*1:その2冊はちゃんと最後まで読みました。

*2:ご存じとは思いますが、幻冬社見城徹社長の著書「編集者という病い」のキャッチコピーです。