旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

ふたりの教員(承前)

新しい担任は中年の女性で、他校から異動してきた教員ではありません。彼女は専科教員でもなく、以前からいる担任を持たない教員だったのです。


担任が更迭され、休んでいた生徒たちが戻ってきた教室は、暴君が去ったということで開放感に満ちていました。水を打ったように静まりかえっていた私たちも私語を交わし始めます。それが授業中にも及ぶこともありました。小学校の教室ならどこでもあることです。
普通ならここで「授業中は静かにしろ」と、教員が軽く注意をすればすむことでした。


彼女は血相を変え、騒いでいる生徒たちに床に正座することを命じました。
そのときは授業は続けられ、正座も十数分後には許されたのですが、これがどんどんエスカレートしていったのです。
正座させられるのが騒いだ生徒だけから、その生徒が属する班の全員となり、さらには生徒全員となりました。正座させられる時間も延びていきます。
床に正座させることは明らかに体罰です。それでいてそれを命ずる彼女には痛みはありません。これでは前の担任とまったく同じです。


とうとう授業までがなくなりました。激高した彼女は授業を放棄し職員室に籠城してしまったのです。
4名の学級委員(私もそうでした)が相談し、全員で話し合い、みんな反省しているので教室に戻って欲しいと彼女にお願いしました。結果、授業は再開されたのですが、それが何度も続き、再開までの時間も延びていきました。


ある日、1時間目に全員が正座させられました。担任は「反省した人から着席しないさい」と言って教室を出て行きました。生徒たちは少しずつ着席を始めましたが、私はしませんでした。
静かにしていた私が反省をする必要はないし、こんな理不尽なことが許せなかったからです。私はその日一日、正座を続けていました。担任は学級委員の懇願に「反省しない人がいるうちは授業をしない」と答え、教室には現れませんでした。
翌日も授業はありません。「みんなで何が悪いかをよく話しあい、結果が出たら報告にきなさい。それが納得できるものであれば、授業は再開します。」とだけ告げると、担任はいつものように職員室に帰ってしまったのです。彼女にとって悪いのはすべて生徒なのです。


この日以降はなんとか授業は行われたようです。上司からの注意もあったでしょうし、彼女自身、これ以上授業拒否を続けると、前の担任の二の舞になると思ったのでしょう。


彼女は、今になってわかるのですが、神経症を患っていたのでしょう。そう考えると同情の余地もあるのですが、暴力をふるう前の担任と同じように、教職に就いてはいけない人たちでした。
当時の教員の社会的地位は今より遙かに高いものでした。また、90%を越える組織率の日教組によって、その仕事上の地位も強固に守られていました。組織の構成員を批判することは利敵行為というわけで、彼女(彼)に批判的な意見を述べる同僚はおそらくはいなかったのでしょう。


生徒が帰った後の校庭で、若い教員たちが男女ダブルスの軟式テニスに興じていた姿を何度も見かけました。美しい戦後民主主義をその人たちだけは実感し、謳歌していたのでしょう。


私は小学校から高校までの卒業アルバムを持っていません。すべて捨ててしまったのです。


最後に、ふたりの教員を慕っていた生徒が、僅かですがいたことを付け加えておきます。


ひどい小学校生活だったね、と同情されそうですが、後々までも印象に残る<教師>たちとの出会いもありました。その話は明日にでも‥‥。