旭亭だより

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今の落語家

唐沢俊一氏による「談志絶倒 昭和落語家伝」(立川談志・著/田島謹之助・写真)の書評(「朝日新聞」28日朝刊)を読み、現代の落語家についての疑問がひとつ解けました。唐沢氏はこの本を写真集としてとらえ、次のように書いています。

今の落語家たちは、語ろうにも、語る”良き昔”を知らない。落語の歴史の中で初めて”現代”を語るしかない今の落語家の写真集が作られたなら、そこに載る顔にはどんな香りがあるのだろうか。

私の疑問は、新作を取り上げる落語家の方が面白いのは何故か、というものでした。
志の輔喬太郎といった人たちの新作落語は、かっての新作落語と比べものにならないほど面白いものです。かっての新作落語とは、戦後一時代を風靡した、主に芸術協会に所属していた落語家たちが語ったものを指しています。それらの落語は私には、登場人物に洋服を着せ、互いをキミぼくと呼ばせ、会話を交わさせただけのものに思えました。そのためか、あっという間に風化し、それを語り継ぐ人は現れませんでした。
それに対して、現在の新作落語には納得のいく面白さがあります。たぶん、内容はまったく違っているのですが、噺の底に古典落語があるからでしょう。それらの新作は古典落語の構造を持っているのです。また、若い落語家たちに語り継がれている新作もいくつかあります。
さらに、新作を取り上げる落語家の古典落語には、それ一辺倒の人たちとは違う面白さがあります。噺は変えていないのですが、登場人物の仕草、話し方が微妙にずれていて、そこに可笑し味が生じます。これは批評行為と呼ぶべきものでしょう。


ノスタルジーに浸ることのできない今の落語家が、落語を成立させるためには「”現代”を語るしかない」からだ、これが私の得た答えです。