彼が私の家に来たこともありました。が、彼の目的は私の住む町の古書店を廻ることでした。
私は彼を懇意にしていた店に連れて行きました。彼はその店の品揃えが気に入ったようで、数冊の古書を購入しました。
その店の主人は、私が行くと昼間でも湯飲みに一杯、酒を注いでくれるのです。自分は飲みません。彼のことを紹介すると、彼の前にも湯飲みを置きました。主人と彼はすぐに打ち解けたようで、古本談義に花が咲きました。
そのころ、彼は古書の目録販売を計画していたようで、古書店の経営について具体的な質問もしていました。主人は丁寧に答えていましたが、「あなたの扱うような本の目録販売では、食ってはいけませんよ」と釘をさすことも忘れませんでした。
彼の仕事はハードで、怪我をすることもよくありました。仕事を続けながら目録での販売をやり、目鼻がついたらそちらを生業にしようと考えていたのかも知れません。彼の奥さんはひとり娘で、近所にある実家の手伝いをしていました。その店ははやっていたのですが、彼はそれを継ぐ気がないようでした。
私は、主人が美術にも関心があることを知っていましたので、彼が絵を描いていることを教えました。主人はぜひ作品を見せて欲しいと彼に頼みました。
数ヶ月後、私ひとりでその古書店を訪れました。いつものように酒が出されます。
主人はあれから彼が何度か店に来たことを教えてくれました。彼からは何も聞いていませんでしたので、あれと思いましたが何も言いませんでした。
「彼の絵、いいですね。古本屋なんかやろうと思わずに絵を描きなさい、と忠告してやりましたよ。」
そう言って主人は、いつも座っている帳場の後の壁を指さしました。そこには3年先の西暦が黒く書かれていました。
「私が後押しをするから、この年に個展を開こうと彼と約束したんですよ。」
主人が彼の絵を認めたことは嬉しかったのですが、私の知らないうちにそこまで話が進んでいたことは心外でした。
彼からの電話がめっきりと少なくなっていたのです。