旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を見て

昨日、テアトル新宿若松孝二監督の映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」を見てきました。お恥ずかしいことに、映画館で映画を見るのは旭亭に越してきて初めてのことです。
一回目の上映を見たのですが、満席でした。客層は私より年上の人たちが半分以上でした。


私は、永田洋子坂口弘植垣康博の手記を読んだことがありません。連合赤軍についてまとまった本を読んだのは1996年に発行された大塚英志の「『彼女たち』の連合赤軍」だけです。それも、当時朝日新聞に掲載されていた大塚の時評で彼に興味を持ち、手にしたのです。*1
そのような次第で、私は連合赤軍について語ることはできません。あくまでも映画の感想にとどめ、書くことにいたします。


キャッチコピー「『革命』に、すべてを賭けたかった‥‥」に、この映画のすべてが要約されています。
革命にすべてを賭けたかったのに、それができなかった人たち。
革命にすべてを賭けたかったのに、革命とは違う方角に歩いていった人たち。
革命にすべてを賭けたかったのに、革命とはまったく関係のない事由で殺されていった人たち。
そんな人たちが主人公の映画でした。


山岳ベースのシーンがこの映画の三分の二を占めていました。
そこでは、体育の授業のような「軍事訓練」が行われ、共産主義的人格の創造という抽象的なナンジャモンジャが要求されるだけです。革命の達成のための方法については決して議論されることはありません。
その理想的な共産主義的人格とはどんなものかは、連合した二つの党派のリーダーである森恒夫永田洋子の阿吽の呼吸の内にしかなく、従って兵士たちに具体的に示されることはありません。


<総括>と称される自己批判は、何を述べても否定されるという理不尽なものですが、これは私たちの日常でも経験するようなことに思えました。ただ私たちは、それが度を過ぎれば、学校や職場というそれを要求する場から去っていくことができますが、あらゆる敵を殲滅するためのこの組織ではそれが許されません。
<総括>ができない人間には、暴力が<総括>の触媒とされます。ここに至って<総括>ということばは意味を変え、暴行と同義になります。
(明日に続きます。)

*1:この書名は植垣康博の手記「兵士たちの連合赤軍」に拠っています。