旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

下町ことばに囲まれて

品川で生まれ、浅草で育った八代目林家正蔵の口から出ることばは、私にとってとてもなつかしいものでした。
私の育った浅草の外れの町は、関東大震災東京大空襲の被害にあわなかった町だったのです。そのため、長く住み続けている人が多く、私は東京の古い下町ことばに囲まれて育ちました。


大正15年生まれの父も生粋の下町育ちでした。よく言われるように、ヒが発音できません。あまり知られていませんが、実はイとエも苦手なのです。父は鉛筆をインピツと発音していました。
母は茨城で生まれ、育ちました。「べいべい」ことばではなく、「だっぺ」ことばの使い手です。また、イとエの区別ができません。
その母を父はからかうのですが、本人は自分もそうであることには気づいていないのです。標準語を強制されて育った私から見れば、目屎鼻屎で、大笑いです。


すぐ近く鳶の頭の家がありました。頭は婿養子でしたから、おかみさんは先代の娘です。そのおかみさんのことばの切れ味が実にいいのです。ただ、ものすごい早口です。
早口も下町ことばの特徴で、私も相当な早口なのですが、おかみさんの足下にも及びません。頭のひとり息子も、もちろん早口でしたが、やや吃音でした。たぶん、母親のスピードに遅れまいとしてそうなったのでしょう。
一時期「天才・たけしの元気が出るテレビ」で有名になった下町の頑固オヤジ、金さんは頭の下で働いていました。


私の下町ことばには標準語が浸食していて、博物館入りは絶望的です。