旭亭だより

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黙阿弥 meets 円朝

黙阿弥の墓

山田風太郎の「八犬伝」には、曲亭馬琴鶴屋南北のすてきな出会いのシーンがあります。また、山田の明治ものには、歴史に名を残した人々のありえたかもしれない出会いが、いくつも書かれていました。


渡辺保「黙阿弥の明治維新」や矢野誠一三遊亭円朝の明治」を読み返しながら、文化十三年(1816年)江戸日本橋式部小路生まれの河竹黙阿弥と、天保十年(1839年)江戸湯島切通生まれの三遊亭円朝は出会うことがあったのだろうかと考えていました。
実際にはこのふたりはことばを交わしたことがなかったようです。


江戸末期、明治時代には、歌舞伎と落語の世界はさほど離れたものではありませんでした。
若き日の円朝は、書割を自ら描き、声色を交えた芝居噺で人気を得ました。
落語から歌舞伎になった作品も少なくありません。円朝の語ったものでは「業平文治」「怪談牡丹灯籠」「英國孝子傳」や「鹽原多助一代記」があります。明治二十五年(1892年)、歌舞伎座での「怪談牡丹灯籠」劇化では、黙阿弥の弟子の三世河竹新七が台本を書いているのです。黙阿弥の死はその翌年です。


黙阿弥と円朝が出会ったとしても、性格がどうも正反対のようで、親しく打ち解けることはなかったでしょう。でもフィクションなら別です。
私に小説を書ける力があったなら、このふたりを牛鍋屋あたりでじっくりと語り合わせたいのですが‥‥。


写真は黙阿弥の墓です。長女吉村糸が建立しました。黙阿弥の本名は吉村芳三郎で、男子がいなかったので糸が婿をとりました。それが繁俊で、彼の代に姓を河竹に変えたのです。