旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

夕かたまけて

昨年の3月11日に読んでいた本は塚本邦雄の「茂吉秀歌『赤光』百首」(講談社学術文庫)でした。地震後の数日は本が読めず、「茂吉秀歌」もそのままになっていましたが、昨日ふと読みたくなり、はじめから読み直すことにしました。
「赤光」は大正2年に出た初版と、同10年の改選版とにはいくつもの異同があります。作品の削除、改作だけではなく、配列がまったく逆になっているのです。初版は逆年順で、改選版は制作年順に変えられています。
私が持っている茂吉歌集は中央公論社の「日本の詩歌」の中の一巻で、昭和43年に発行されたものです。「赤光」は改選版が収録されています。「日本の詩歌」は、私の多感だった時代に刊行されましたので、ラベンダー色の装丁とともに印象に強く残っている全集です。現在はこの茂吉歌集と、鉄幹夫妻などを収めた巻のみが手許に残っています。
「茂吉秀歌」は初版を用いて書かれています。師伊藤左千夫の訃報に接して詠まれた「悲報来」連作十首から始まる初版「赤光」は強烈は光を放つ歌集で、改選版に親しんだ私には別な本と感じられるほどです。
などと書くと、いかにも私が茂吉の歌を愛し、親しんできたように思われそうですが、文語文法に無知な私ですからそれは無理というものです。その無知さを示すのが、今日のお題です。
 鳳仙花城あとに散り散りたまる夕かたまけて忍び逢ひたれ
この歌が相聞であることは、私にもわかります。「忍び逢ひたれ」はなじまぬ表現ですがなんとか理解できます。問題は「夕かたまけて」です。いくつもの辞書を引いてみましたがだめでした。そもそも「夕」「かたまけて」なのか、「夕かた」「まけて」なのかさえもわかないのですから、どだい無理なのです。
和歌の好きな人に訊ねたら、次の歌を引いてすぐに答えてくれたはずです。
 いつはしも恋ひぬ時とはあれねども夕かたまけて恋ひはすべなし
万葉集」にある人麻呂の相聞です。「夕暮れは特に」と考えられます。塚本氏も、誰もが知っていることなので記さなかったのしょう。文法だけでなく、古典の知識もないことを思い知らされました。いいんです。これから勉強するもんね。
その前の「忍び逢ひたれ」に対する塚本氏の評釈に感嘆しましたので引用しておきます。

「忍び逢いたれ」の不安な已然形切、「たり」で結ぶべき末句は、「こそ」を先立てもせず、さりとて「と」を従えもせず、已然形のままで夕闇に溶け滲む。人の名も言わず、その場所も時間も明示せず、事実の言葉尻を濁し、「ありのまま」の姿をも晦まし、茂吉はまこと本意なくも、虚構擬きの相聞歌をものする他はなかつた。(41頁)