旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

一葉について

22年前に一葉について短い文を書きました。間違いもありますがそれを以下に引用します。冒頭の「その頃」は一葉が中島歌子の主催する歌塾「萩の舎(はぎのや)」に通っていた時期を指します。文中にある蓬莱中学校は現在は今戸中学校と統合され桜橋中学校となっています。


なっちゃんはその頃、生活費を得るために「闇桜」「たま襷」「別れ霜」などの小説習作を書き始めていました。「萩の舎」に通う傍ら、東京朝日新聞社員だった小説家半井桃水(なからい・とうすい)の指導を受けていたのですが、ふたりの関係について有らぬ噂が立ち、中島歌子は彼女に桃水との絶交を勧めたのです。
なっちゃんの父則義は零落した士族でした。その父の死後樋口家は破産します。彼女は、小説で生活を支えようとしましたが思うに任せません。わずかな原稿料では口を糊することができず、父親の旧知の知人たちから借金を重ねるばかりです。
返す当てもない借金をいつまでも続けるわけにはいきません。21歳の家長なっちゃんは、少ない元手でできる商売をしようと、駄菓子屋を始めることにしました。一家は明治26年6月、下谷龍泉寺町に引越します。そして同年8月に店を開いたのです。しかし商売はうまくいかず、明治27年5月には本郷円山福山町に転居します。彼女が下谷龍泉寺町での体験のもとにした「たけくらべ」の第1回目を「文學界」に発表したのは明治28年1月でした。
明治28年はなっちゃんにとって大きな転機となった年でした。9月、「文藝倶楽部」に発表した「にごりえ」によって彼女は注目を集め、原稿の依頼が殺到します。なっちゃんの家には当時の文学青年たちが引きも切らずに訪れ、サークルのようなものを形作るに至る始末です。しかし彼女は冷静に自分とその周りを見つめていました。
なっちゃんはさらに「文藝倶楽部」12月号に「やみ夜」と「十三夜」を、「国民の友」明治29年1月号に「わかれ道」、「日本の家庭」1月号には「この子」を載せました。一葉の時代の幕開けです。しかし、彼女はその後、1年と生きることができませんでした。
明治29年4月、なっちゃんは「文學界」に1年間をかけて発表した「たけくらべ」を「文藝倶楽部」に一括掲載しました。正岡子規幸田露伴そして森鴎外といった人たちが最大級の賛辞を惜しみませんでした。しかし生活は一向に楽にはならなかったのです。
彼女は明治29年7月頃から高熱を出すようになりました。8月、駿河台の山龍堂病院で診察を受けましたが、すでに直る見込みはないとのことでした。鴎外の紹介で青山胤通博士が往診しましたが、結果は同じでした。
明治29年11月23日、なっちゃんは息を引き取りました。24歳でした。
翌24日、霙が降る寒い日になっちゃんの葬儀は行われました。鴎外が騎馬で葬列に従うことを申し出ましたが、妹の邦子が丁重に辞退しました。葬列があまりにも貧弱だったからです。
鴎外はこのように書いています。
「われは縦令(たとい)世の人に一葉崇拝の嘲りを受けんまでも此の人にはまことの詩人という称をおくることを惜しまざるなり」
あの偉大な一葉女史を「なっちゃん」なんて気安く呼んだのには理由があります。それのほうが可愛いからというのもあるのですが、彼女とぼくが比較的ご近所だったからなんです。なっちゃんが短い間駄菓子屋を営んだ下谷龍泉寺町は、ぼくの通った台東区立蓬莱中学校の傍なのです。現在その近くに一葉記念館があります。