漱石の『明暗』は何度も読みましたが、津田の妻、延子はただ小賢しい女性としか思えませんでした。津田が入院してからのこの小説は延子を中心として進みます。特に彼女の結婚観は何度も描かれ、この夫妻の物語こそが主題であることがわかってくるのです。私はまったくどこを読んでいたのでしょうか。
津田由雄は三十歳、延子は二十三歳、結婚して半年です。たった半年なのですが、延子は自分の結婚に失望し始めていました。
二人は見合ですが、延子は津田に強く惹かれました。彼女は京都の実家を出て東京の叔母夫妻と暮らしていましたが、結婚こそが自分を幸せにするものと確信していました。そのために人を見る目を育ててもきたのです。そしてそれに自信を持っていました。津田はそのめがねに敵った男性だったのです。津田も彼女に好感を持ったようで、結婚はとんとん拍子に進みました。
津田は働いていましたがそれだけは家計を維持することができず、父から毎月一定額の送金を受けていました。延子は家計には関心がなく、着るものには金を惜しみませんでした。それも愛されるためだったのでしょう。自分が愛すれば相手も愛し返してくれる、そうすれば幸せになれる、はずだったのですが、津田の愛は延子には伝わってきませんでした。
私は前に津田を「チャラ男」と書きました。結婚前の延子と暮らしていた叔母のお住は、もっと的確に津田を見抜いていました。「あの男は日本中の女がみんな自分に惚れなくつちやならないやうな顔付をしてゐるぢやないか」。
そんな津田が、自分から去って行った清子に拘泥するのは当然です。惚れてしまった延子は、それだけで愛されなくなるのです。しかし延子は、「誰でも構わない、自分の斯(こ)うと思ひ込んだ人を飽く迄愛する事によつて、其人に飽迄(ママ)自分を愛させなければ已(や)まない」とまで考えているのです。
『明暗』は「暗」から始まりました。となると、書かれなかった「明」がどんなものであるかは想像できるのですが、よほどの力業がなければ、それは読者を納得させるものにはならないのではないでしょうか。