旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

読みの浅さに呆れてしまうま

難解な評論とかではなく、サクッと読み通せるような小説がきちんと読めていないと恥じ入ることが多くなりました。前はそうでもなかったのに、と老いのせいにしてやり過ごしたいのですが、そこまで卑怯にはなれません。
昨日書いた『増補 漱石と落語』でも、下記の部分にがくっときました。
「寒月は真面目な理学士であり、音楽や絵画や演劇など芸術の愛好家であるが、迷亭同様「滑稽趣味」(第三)をもち、女にもてると信じて色男ぶっている落語のきざな若旦那(例えば「湯屋番」「酢豆腐」「文違い」など)風の役を演じたがるのである。」(154頁)
私の考える寒月は「天然」の人でした。だから一貫しない生き方も仕方ないと認めていました。しかしそれは読みが間違っているのであって、彼は毅然と生きているのです。
これは『吾輩は猫である』という小説のせいも、いいわけはなく、少しはあります。漱石自身が三毛子の死に関する設定を誤っているなど、テキスト自体を疑って読まれることも拒否できないからです。
悔しくはありますが、本の再読が楽しくなってきました。
(お題はタイプミスではありません。自嘲の意味を込めました。)