旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

理想の老後

夢の中の死者は口をきかないという俗説があります。確かに、亡くなった父の夢を見ることがありますが、父はいつも黙って笑っているだけです。
ところが、先ほどまで見ていた夢で、私は死者と話をしていました。


Oさんは以前勤めていた会社の取締役で、私より40歳以上年長の方でした。仕事ぶりは厳格を極め、右も左もわからないひよっこであったそのころの私は、畏敬の念を抱いて遠くから仰ぎ見るだけでした。
ところが、Oさんが退任してから毎月一度、お宅を訪ねて世間話をするようになったのです。はじめのころは会社からの届け物を渡し、挨拶をするだけでいそいそと退散してきたのですが、そのうちに上がりこんでお茶をいただくようになりました。


Oさんは、どうやら人づきあいが苦手なようで、退任後はほとんど家にいるようでした。ですから家族以外との会話に飢えていたらしいのです。それで、私のような無知な若者の話でも喜んで聞いてくれたのでしょう。


Oさんのそばにはいつも奥様がいて、かいがいしく世話をやいていました。Oさんは無骨な明治男の典型で、ひとりではお茶も入れられなかったはずです。奥様は東山千栄子京塚昌子を足して二で割ったような方で、私はおふたりに理想の老後の姿を見ていました。


奥様の三味線で、Oさんが小唄の稽古をしているところに出くわしたことがあります。Oさんは奥様に、三味線をしまいお茶を入れるよう命じましたが、私が所望すると照れながら一節歌ってくれました。奥様の三味線はなかなかのものだったとだけ記しておきましょう。


私はOさんと会社や仕事の話をしたことがありません。関心のあることなどを私が一方的にしゃべり、Oさんが質問や感想などを短くはさみ、それを奥様がにこにこと聞いているのがお決まりのパターンでした。


夢の中のOさんは、少し派手なブルーのスーツを着ていた以外はあのころのままで、「誰だい、Oさんが亡くなったなんて失礼なことを言ったのは。こんなにお元気じゃないか」と思ったほどでした。


「君とも随分会っていなかったね。」
Oさんは私に、そう話しかけてくれました。