旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

こんなのはじめて見ました

昨日は寒がりの私でも、歩いていて羽織りものを脱ぎたくなる暖かさでした。あたりを見ると、サクラがまだ咲いているのにハナミズキが咲き始めていました。こんな風景ははじめてです。
サクラの開花が遅れたせいでしょうが、私が中年の頃まではハナミズキは5月初旬に咲いていました。

寒がりです

歳をとって一番変わったと思うのは寒がりになったことです。暑いのは苦手でしたが、寒さは平気でした。それが60歳を過ぎた頃から少しずつ変わっていきました。
70歳少し前からは指先が冷えるようになりました。火照ることはありましたが、まったく逆になってしまったのです。その頃から完全な寒がりになりました。
気温が20度を超えるようになっても厚着をしています。

読めない本はあきらめよう

通読できなかった理由の一番は、昨日書いたような「他の本に移ってしま」ったからではなく、内容が理解できないことです。くやしいが読める日も来るだろうと、泣く泣く(嘘です)書棚に戻していました。増える一方でしたが仕方がありません。
何年か後に、そんな本をすらっと読み進められたときは、小躍りがしたくなるほどでした。それ以後に読んだ本のおかげなのでしょう。本はいつかは読めるもの、何度でも読めばいいのです。
昨年病気をしてから、歯が立たずに読めなかった本はもう手にしないことにしました。考えが変わったのではありません。「いつか」を待つ余裕がなくなってきたと感じたからです。それなら読める本を一冊でも多く読んでおきたい。
そういいながら、途中でやめてしまった松本重治著『上海時代 - ジャーナリストの回想』(中公新書/全3冊)を読んでいます。

遠藤正敬『戸籍と国籍の近現代史』

遠藤正敬(えんどうまさたか)著『戸籍と国籍の近現代史 - 民族・血統・日本人』(明石書店/2019年初版第4刷)を読んでいます。通読できなかった本ですが、今回はやります。
小熊英二の『〈日本人〉の境界』(新曜社)を再読したくなってきましたが、読み終えてからにします。通読できない原因の多くが、他の本に移ってしまうことにあるからです。
厚めの本が机に積まれていきます。次の入院までに読み終えるのはとても無理。退院してからもそれらを読みたい気持ちが持続しているのか、あまり自信がありません。それならそれでいいと考えるようになってはきています。

志ん生の背中を流す

古今亭志ん生の夢を見ました。
住んでいるのは日暮里の家ではなく、落語家になった長男(馬生に非ず)の家族と同居していました。もう高座には上がっていないようでしたが、とても元気そうでした。私は落語家志望ではなく、なぜ会いに行ったかはよくわかりません。師匠とも落語以外の話をしていました。そのうちに銭湯に行くことになり、私も付いていき、背中を流すことになったのです。
夢はその後長男の家の話に移り、志ん生は退場してしまいました。

intervention

昨日の東京新聞朝刊の『杉全(すぎまた)美帆子の読み解きアート』では埼玉県立近代美術館で開催されている「アブソリュート・チェアーズ」が紹介されていました。「今回の展覧会は「座れない」作品がほとんど。「座る」以外の椅子が持ついろいろな面を、現代作家があの手この手で可視化してくれます。」と杉全は書いています。そんな「アート」のいくつかが写真とイラストで掲載されていました。その中のダイアナ・ラヒムの《インターベンションズ》は公園でよく見かける「排除アート」そのものです。"interventions"というタイトルですから、作者がこの椅子の形状を批判的に見ているのは間違いありません。しかし杉全のキャプション「体を横たえたい人の邪魔する物体を少しでも感じよく…」に疑問を感じました。どれだけ可愛く飾り立てても、あんな椅子はintervention(口出し)にしかなりえないのです。
一夜明けて今日の東京新聞朝刊の『こちら特報部』には「新宿の公園ベンチは「意地悪」か」という記事がありました。あの「排除アート」は最近では「意地悪ベンチ」と呼ばれているのですね。こちらははっきりと「意地悪ベンチ」に否定的でした。