旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

勝五郎は知っていた。

昨日は「まさかの二乗」と書きましたが、ひとつはもちろん季節です。
落語界の第九「芝浜」は、噺家が越年資金を手にするための重要な手段です。だから夏期賞与に利用してはいけないという不文律があるのです。(そんなの聞いたことないよ。)
このお約束は落語の全流派に共通のものですが、立川流ではさらに制約が増えることになります。家元の「芝浜」があるからです。


三年前に談志が演じた「芝浜」は、本人さえ絶賛するすばらしい出来でした。
その「芝浜」は、魚勝の女房はあれを夢にしたくなかったという噺になっていました。これについては一度書いていますので、ここでは触れません。


今、立川流噺家が「芝浜」を演るなら、家元の「芝浜」をどう捉えているのかを客に示さなければなりません。評するのではなく、その人の「芝浜」としてです。


談笑はそれにどう応えたのか、お題でおわかりですね。


唐突ですが、立川流はリアリズムを追求する流派であると私は考えています。
家元が、噺を終えてから幕が下がるのを途中で止め、首をひねりながら「どうも納得がいかねえ」と自問自答しているのを何度か見ましたが、それはその日の噺の出来についてではなく、演ってはみたものの、噺の展開や登場人物の心理に無理があると、気になって仕方がないように感じられました。
「こんなもんかねえ。これでいいのかい。」
最後にはいつもそうつぶやいていましたっけ。


赤貧洗うがごとしの生活をしてきた魚屋の女房が、あの金を欲しがらないわけがないのです。そんなリアリズムから導き出されたのが談志の「芝浜」でした。


しかし、さらにリアリズムを追求するのなら、違った展開が見えてきます。そうです。大の大人が現実を夢だと言われ、納得するはずなどないのです。勝五郎は知っていたのです。
でも、そうなると糞リアリズムになりかねません。そこがむずかしいところですが、談笑は最後にもうひとつひねりを加えました。(これは高座で聞いてください。)
私には、あまりこなれた結末には思えませんでしたが、談笑の「芝浜」は今後どんどん変わっていくのでしょうから、それに期待することにします。
一言いうとすれば、「また夢になるといけねえ」というサゲのない「芝浜」があってもいいのではないでしょうか。