旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

つれづれわぶる

杉本秀太郎の「『徒然草』を読む」(講談社文芸文庫)を杖に「徒然草」を読み始めました。
テキストは木藤才蔵校注の新潮日本古典集成で、数年前に文語文法を学ぼうとしたときに購入したものです。毎度毎度の掛け声ばっかりで、文法の学習にはからっきし手をつけませんでした。当然、「徒然草」も読まずじまいです。
杉本秀太郎の本は文庫化されると必ず買ってきました。彼の文章はどんなものでも読む価値があるからです。それならハードカバーで揃えればいいものを、つまらないことにお金を遣い大切な出費を惜しむと云う、子供の時からの悪弊がなかなか抜けないのです。
「『徒然草』を読む」を道案内にする気はありませんでした。埃をかぶった「徒然草」を見て、おのれの意志の弱さに情けなくなり、どうにか手に取り頁を繰ったのが始まりです。傍注の現代語訳と頭注で、ほぼ意味はわかりました。
それとは別に、杉本の本を探していて「『徒然草』を読む」を見つけました。買ったことを忘れていたのです。本文でなく、巻末の光田和伸による解説「古関の嵐」を読み、流布している「徒然草」の解釈とこの本はまったく異なることを知りました。
今は杉本の本を読み、そこに出てくる「徒然草」の原文をたどっています。これを終えたら、「徒然草」を最初から読み通すつもりです。文語文法の学習を間に挟めたら、なおいいのですが。
第九十三段の死んだ牛の話が、私を捕えて放しません。人々に嘲られている「理屈こきの男」は杉本の書く通り「物狂おしい兼好の分身」なのでしょう。そして、これこそが序段にある「あやしうこそものぐるほしけれ」の実態であるはずです。
卑小化された兼好は私の中にもいます。