旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

絵を描く人たち(2)

彼の職業は意外なものでした。こんな繊細な人にそんな仕事が勤まるのだろうか、と危惧しましたが、彼は十年以上もその職に就いてきたわけで、私が気にかけることではありません。
「ほんの腰掛けのつもりだったんです」と彼は言いました。
画家を志して上京したのですが、生活のためのアルバイトがいつの間にか本業になってしまったとのことでした。職場の近くで知りあった女性と結婚し、子供がひとりいるそうです。
今は描いていないですか、と尋ねると「仕事がきついもので、時間が作れません」との答えが返ってきました。絵を職業にすることあきらめたそうですが、たまには筆を手にすることはあるようでしたので、いつか作品を見せてくださいとお願いし、その日は別れました。


その日から、彼からの電話が頻繁にかかってくるようになりました。今近くにいるので会えませんか、内容は決まっていました。
彼と私の勤務時間は大幅にずれていました。彼が仕事を終え自由になる時間は、私にとっては仕事の真っ最中なのです。平社員の私には、私用で外出することはなかなかできません。
そのうちに、彼は私の昼休みに職場を訪ねてくるようになりました。短い時間ですが、彼との会話は楽しいものでした。
はじめは本の話が多かったのですが、遠慮がなくなると、私は彼に美術に関する質問をぶつけるようになりました。画家になることは断念したとはいえ、彼は現代アートには、今でも関心を抱いているようだったからです。
彼の姿を見た同僚たちから、彼について尋ねられることが何度かありました。見過ぎ世過ぎの世界とは隔絶したところで生きているのではないか、といった印象を、彼は同僚たちに与えたようです。
彼は遠くから来た人だったのです。