旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

犬養道子「旧約聖書物語」

旧約聖書」が神話の書としてだけでなく、歴史書としても読めることは知っていますが、すべてを再読する気にはなかなかなれません。通史になっていないこともありますが、延々と繰り返される不信仰(神への裏切り)の話に、懲りない奴らだと辟易してしまうからです。


犬養道子の「旧約聖書物語」は、「新約聖書物語」と並んでいろいろな書店に置かれているのを見てきました。ロングセラーなのでしょう。
しかしそのタイトルから、子どものころ、クリスチャンの親を持つ友人たちの書棚に必ずあった似たような書名の本を思いだし、手にすることはありませんでした。


犬養の本は「ある歴史の娘」しか読んだことがありません。熱心なカトリック教徒であることは知っていましたので、そのことも彼女が書いたキリスト教に関する本から、私を遠ざけさせていました。


ところが田川建三の著書を買った日に、「旧約聖書物語」にも目を通したところ、私の思っていたような(=「おはなし旧約聖書」というような)本ではないことがわかりました。で、それも購入しました。


クリスチャンの立場から書かれた本ですが、犬養は信仰告白に陥ることなく、研究者の目配りも忘れていません。学ぶところはたくさんありました。
ただひとつ気になったのは、「偶有」ということばです。ある性質を偶然に持っているという名詞ですが、犬養はこのことばを、彼女にとって神を意味する「絶対有」と対照させ、人という意味で使っているのです。
造語ならばわかりますが、既存の名詞をまったく違った意味で使うのはどんなものでしょうか。それとも、カトリックではそのように使われているのでしょうか。
煩雑に使われていますが、註もありませんので、その意味がわかるまで結構イライラしました。