旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

三代目円遊(承前)

昨日の「三四郎」の一節のあとに次の文があります。
「円遊も旨い。」
やっとステテコの円遊の登場です。このまま彼の出番がないうちに、この便りは終わってしまうのかと心配していました。それでは看板に偽りありになっちゃいます。
「天才小さんと同時代を生きる幸せ」がひとり歩きし、その続きは忘れられがちです。実は私もそうでした。それを気がつかせてくれたのは、矢野誠一の「三遊亭圓朝の明治」(文春新書)でした。以下の部分はこの本に教えられたところがほとんどです。


三代目円遊ははじめ二代目五明楼玉輔の門下となり、師匠の廃業を期に円朝の弟子となりました。彼を有名にしたのはステテコ踊りです。


噺のあと、着物の裾をはしょり半股引を見せ、手拭をうしろ鉢巻にしめ「そんなこっちゃなかなか真打にゃなれない、あんよたたいてせっせとおやりよ、すててこてこてこ‥‥」と歌いながら、滑稽な振りの踊りを、円遊は高座で見せるようになりました。
即興の歌詞はその後まとまったものになり、「鼻の円遊」といわれたほどに大きなそれを、つまんで捨てる仕草に観客は熱狂したそうです。
ステテコの名は半股引の名称として定着し、今も使われています。ドラクエにも出てきたもんね。


泥鰌は二匹どころか四匹もいました。
「へらへら踊り」の三遊亭万橘、「郭巨の釜ほり」の四代目立川談志、「円太郎馬車」に名を残したラッパを吹く音曲師、四代目三遊亭円太郎(初代は円朝の実父)です。
しかし、彼らは間もなく消えていきました。本藝がセコかったからです。


漱石が書いたように、円遊の落語は円朝も認めるほどのものだったのです。
「円遊も旨い。」は以下のように続きます。

然し小さんとは趣が違ってゐる。円遊の扮した太鼓持は、太鼓持になった円遊だから面白いので、小さんの遣る太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だから面白い。円遊の演ずる人物から円遊を隠せば、人物が丸で消滅して仕舞う、小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したって、人物は活発発に躍動するばかりだ。そこが偉い。

しかし、時代は円遊に軍配をあげ、現在もそのままです。


一昨日の便りに、円遊は人情噺「お初徳兵衛」を落語「船徳」に改作したと書きました。これは円遊の当時の落語界に対する挑戦でもあったのです。
円朝の全盛時には、トリの真打は続き物の人情噺(芝居噺や怪談もあり)を語るものでした。そのようにして客を翌日も呼びこもうとしていたのです。それを円遊は落語(滑稽噺)に変えました。
ステテコ踊りによる円遊の人気がそれを可能にしたのでしょうが、観客は落語を支持しました。それは、歌舞伎が通し狂言から見取りに変わっていったことと、軌を一にしていたのです。