旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

ポアロはなぜ故国を後にしたのか

アガサ・クリスティーのミステリーを熱心に読んだのは十代の頃です。『アクロイド殺し』『そして誰もいなくなった』など感心した作品はいくつもありましたが、再読したものはありません。
映画やテレビドラマになったものも見ました。どれも原作を忠実になぞっているだけで、風景やセットを見る楽しみしかありませんでした。
BSプレミアムの『ABC殺人事件』を見たのは、ジョン・マルコヴィッチがエルキュール・ポワロを演じていたからです。彼ほどポアロに似つかわしくない俳優はいません。お手並み拝見といったところでした。
私は原作についてわずかなことしか覚えていません。アルファベット順に、それを頭文字とする町で同じ頭文字の人が殺されるということだけです。
でも、今回の『ABC殺人事件』は原作からだいぶ離れた作品であると断言できます。なぜならポアロの前職が警察官ではなかったからです。ポワロの友人だったジャップ警部の後任者クローム警部はそれを知り、ポワロにお前は何者なのだと迫ります。クローム警部にとってポワロは、過去の栄光にすがる老いぼれの異国人に過ぎないのです。
(以下ネタバレあり。)また犯人と目されたA.B.C.氏をあのように描くのは、クリスティーにはできなかったでしょう。
『刑事フォイル』を見たおかげで、私はイギリスが移民に寛容な国ではなかったことを知りました。そのようなところにポワロはやってきたのです。彼は故国では聖職者でした。ベルギーはプロテスタントの国ですから、牧師だったのでしょう。第一次大戦中、彼の住む村にドイツ軍が侵攻し、村人が退避した教会には火が放たれました。たまたま助かった彼はイギリスに逃れたのです。
ABC殺人事件』は動機のある一つの殺人を隠すためにそれと無関係な三人が無意味に殺されるという馬鹿馬鹿しい事件です。ドラマはそれらの人びとにもスポットライトを当てていました。とりわけB嬢の周囲の描写は丁寧で見事でした。
ポワロを筆頭に不幸な人びとばかり登場しましたが、少し先にほのかな光があることを予感させてドラマは終わりました。いいものを見ました。