旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

「水死」の中の漱石

大江健三郎の「水死」にはウナイコという才能ある女優が登場します。
小説は長江古義人(ちょうこうこぎと)という老年の作家の視点から書かれています。これはある時期からの大江の書き方で、長江は大江とほぼ重なっています。「水死」では長江の書いてきた作品名が大江のそれと同じで、重なるというよりは同一人物となっています。
ウナイコは長江の作品をもとにした戯曲を上演している劇団「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」に所属していますが、自身の作品も演じるようになりつつあります。それは「死んだ犬を投げる」芝居と呼ばれています。一種の討論劇で、俳優や観客が納得できない意見の発表者に、ブーイングのかわりに犬のぬいぐるみを投げつけるというものです。
ウナイコは夏目漱石の「こころ」を題材に、中学生と高校生を対象にした「死んだ犬を投げる」芝居を上演します。彼女は教師役で、観客を生徒にみたて、授業形式で芝居を進めます。客席には俳優が配置されていて、ウナイコの教師に反応します。ヤラセではありません。討論ではなく、討論劇なのですから。
劇のクライマックスは「先生」の死です。ウナイコはそれに不快感を抱いているのです。
というところで、小説の紹介はおしまいです。あとは買ってよんでください。長江先生も、本が売れないと嘆いていますから。
私がはっとしたのは、「先生」が殉じた、明治天皇とともにあったという「明治の精神」についてです。私は明治天皇から戦前の昭和天皇までを、一続きのものと考えてきました。それだけでなく、神格化(宗教化)した昭和天皇の姿を、明治天皇にもそっくりあてはめていました。
そのような見方から、大正三年に書かれた「こころ」を読むことは間違っていることに、「水死」は気づかせてくれたのです。


水死 (講談社文庫)

水死 (講談社文庫)