旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

柄谷行人と『重右衛門の最後』

田山花袋の『重右衛門の最後』を読んでいて、柄谷行人がこの作品について書いていたことを思いだしました。柄谷は30年以上読んでいません。どの本だったのでしょうか。
マルクスその可能性の中心』(講談社/1978年)でした。第4章の「文学について-漱石詩論Ⅱ」にこう書いてあります。
「花袋の『重右衛門の最後』における主人公も、「獣類」に近いのではなく、彼が生存する共同体そのものの畸形化による”ヒステリー”的発現とみなされるべきである。ところが、花袋はむしろ人間が「獣類」に近いことを暴露する方向に向かった。」(163頁)
「ところで、『カインの末裔』における凶暴な小作人が、重右衛門と決定的に異なるのは、後者が村の共同幻想によって排除されていくのに対して、前者において「村」はなく、農場主と小作人という階級関係があるだけだという点である。」(同)
私は「共同幻想」という言葉が苦手です。吉本隆明の『共同幻想論』は読んでいますので、そこで使われている「共同幻想」ならわかります。その後、この言葉は『共同幻想論』を離れてあちこちで使われるようになりました。そのためそれを見るたびに、著者はこの言葉にどんな意味を与えているか考えなければならなくなりました。吉本が文芸評論に持ち込んだ「位相」という言葉もそうです。
あの時期の柄谷のことですから吉本と同じ意味で用いていると考えましたが、文脈から「共同幻想=共同体(村)の生み出した畸形化した観念」と読め、どうもそうではないようです。やれやれ、昔はこんなことは考えなかったのにな。寄り道はやめて、仏典と『新約聖書』、中世文学に戻ることにします。