旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

トシオとミホ

島尾ミホさんが25日に亡くなりました。
訃報を聞いたとき、不思議と悲しみはありませんでした。ミホさんは、最愛の夫トシオと長女マヤちゃんのところへとうとう旅だったのだな、そんな感慨だけが湧いてきました。


ミホさん、行ってらっしゃい。喪服は着替えていってくださいね。


(以前、島尾一家について書いた文章がありましたので、以下にその一部を引用します。少し長いので2回に分けることにしました。伸三さんの写真集にふれて書いた文章なので、彼についての記述から始まっています。自分の文章なので、読みやすさを考慮し、引用記号は付けないことにしました。)


島尾伸三さんは写真家で、奥さん潮田登久子さんと共に、中国や香港に題材を求めた写真集やリポートを発表してきました。


ぼくが彼の最も初期の作品をカメラ雑誌で観たのは20年近く前でしょうか。当時流行のピンボケ写真でした。しかし、写真よりも先にぼくの眼には島尾伸三という名前が飛び込んできました。十代の頃から何度も読み返した晶文社版の島尾敏雄作品集(全5巻)の口絵写真で彼を知っていたからです。


写真の中の島尾伸三君はお父さんによく似た好男子でした。そしてその傍にはいつも、南方系の広い額と彫りの深い顔立ちをしたお母さんのミホさんと、お母さん似で凛として可愛い妹のマヤちゃんが写っていたのです。


愛読している著述家の子供が作品を発表したから驚いたのではありません。
伸三さんは、作家島尾敏雄の息子というより、「島尾」伸三なのです。選ばれた家族ではなく、選ばれてしまった家族、島尾家の長男なのです。


島尾家は何に選ばれたのか。ひとつは間違いなく「時代」にです。


中央公論社版「日本の文学」の戦後名作集のような巻に収められていた「島の果て」がぼくが触れた初めての島尾敏雄の小説でした。
有名な「むかし、世界中が戦争をしていた頃のお話なのですが−」という書き出して始まるメルヘンのようなこの作品は比類なく美しいものです。島尾敏雄とミホ夫人を連想させる朔(さく)中尉とカゲロウ島の村長(むらおさ)の娘トエの恋物語は、どこか遠いポリネシアの神話のようです。ふたりの出会いのときの夢の中のような会話。


 「私は誰ですか」
 「ショハーテの中尉さんです」
 「あなたは誰なの」
 「トエなのです」


島尾敏雄は昭和18年、九州帝国大学法文学部を卒業し、海軍予備学生を志願しました。26歳でした。
翌年、第一期魚雷艇学生となり、横須賀、長崎県川棚で訓練を受け、少尉に任官し、第十八震洋隊の指揮官となり、奄美群島加計呂麻島(かけろまじま)呑之浦(のみのうら)に赴任しました。


震洋とはモーターボートの先に爆弾を搭載した特攻兵器です。大学を卒業して1年少々の青年が、183名の隊員の指揮を執ることになったのです。彼らの任務は敵艦に爆弾の抱いて体当たりすること、年若い指揮官の苦労は想像を絶します。
彼はこのときの体験をもとに多くの作品を書いています。それらの中に、隊員に絶対者として臨んだり、彼らを殴るときのを心の動きや痛みが、安易はヒューマニズムとしてではなく、精緻に記されています。


ぼくは、大西巨人の「神聖喜劇」と島尾敏雄の一連の作品が戦争が生んだ文学の最も優れた成果であると思っています。


第十八震洋隊は呑之浦に基地を設営し、特攻訓練を続けながら出撃の命令を待ちます。島尾敏雄は19年12月、海軍中尉になりました。