旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

さよなら、富樫さん!

「Guild for Human Music」

卓越したパーカッション奏者、作曲家であった富樫雅彦さんが22日に心不全で亡くなりました。私の十代のころからの憧れの人でした。
数年前に、体調がすぐれないので演奏活動を止めるという新聞記事を読みました。そのとき、仕事をやり終えたんだな、との思いがまず湧いてきて、残念なことだが仕方がない、と納得したものでした。
富樫さん、すばらしい音楽をありがとうございました。今はこれしか言えません。
合掌。


(以前、富樫さんについて書いた文章がありましたので、以下にその一部を引用します。自分の文章なので、読みやすさを考慮し、引用記号は付けません。)


ぼくが18歳のときでした。ギターを弾いていたぼくはその頃気の置けない仲間と週一回ほどのジャムセッションを楽しんでいました。


ある日遅れてやってきたドラマーのKさんがぼくに話しかけてきました。
「君は富樫さんのファンだよね。新聞にはまだ載っていないけれど、彼、昨日奥さんに刺されたんだ。命は取りとめたらしいが重態で、ドラムはもう叩けないみたいだよ。」
信じられませんでした。天才ドラマー、富樫雅彦の演奏がもう聴けないなんて、そんなことあっていいはずがない。


当時富樫はピアノの佐藤允彦、ベースの荒川康男とトリオを組んでいました。モード奏法を極限まで展開させた斬新な演奏は評論家たちからも絶賛されていました。「パラジウム」というアルバムで彼らの演奏を聴くことができますが、現在でも十分に鑑賞に堪えるものです。


富樫はヴァイオリニストの父を持ち、幼いときから音楽の英才教育を受けていたそうです。ドラムは独学で習得し、中学卒業と同時にプロになり、天才少年ドラマーとしてもて囃されていました。


富樫はバークリーから帰ったばかりの渡辺貞夫のグループに参加し、一時期ですが山下もそこに在籍していました。渡辺は持ち帰ったバークリー理論を若いミュージシャンたちに教えることに情熱を燃やしており、その第一期生が富樫、山下たちだったのです。


そこでの優等生はいつも富樫で、山下は出来の悪い生徒だったそうです。
そこにふたりの確執の芽があったのかどうかはわかりませんが、渡辺グループでボサ・ノヴァがうまく演奏できない山下を富樫が非難し、山下はグループを離れてしまいます。


富樫と山下が再会するのはそれから15年ほどたった1980年でした。ふたりは「兆(きざし)」と名づけられた美しいデュオ・アルバムを制作します。


富樫は回復しましたが、下半身の運動機能は失なわれたままでした。そしてそれは現在まで続いています。ドラマーが足を使えない、これほど残酷なことはありません。
富樫はリハビリに励み、パーカショニストとしての訓練を始める傍ら、作曲の勉強にも本腰を入れるようになりました。


富樫の再起記念ライブは相倉久人が支配人をしていた新宿ピットイン2階の「ニュージャズ・ホール」で行われました。フリー・ジャズ専門のこのホールは、通常は客より演奏者の方が多いという閑古鳥が鳴いているところだったのですが(よく通ったものでした。客がぼくひとりということが何度もありました)、さすがにその日は満員になりました。


「ニュージャズ・ホール」の入口はひとつしかなく狭い階段えを上らなければなりません。元はピットインの物置だったのです。車椅子の富樫には誰かの助けが必要です。
川端民生がなんと車椅子ごと富樫を持ち上げ、ホールまで運んできました。奥さんがすぐ後ろに付き添っています。


富樫の周りをミュージシャン仲間が取り囲みます。彼の足は痩せ細り、車椅子にベルトで固定されています。誰にともなく奥さんが小さな声で話しました。
「足の痙攣がまだ止まらないんです。もう一度手術すればなんとかなるだろうとお医者さんは言っていますが……」


高木元輝(サックス)、佐藤允彦(ピアノ)、翠川敬基(ベース、チェロ)、ジョー水木(パーカション)という錚錚たるメンバーを擁した新生富樫グループでしたが、当夜の演奏は纏まりに欠けたものでした。富樫の表情にも苛立ちが見られます。


しかし予期せぬ助っ人がこのライブを救い出してくれました。日野皓正です。
当時彼はジャズ界のアイドル的存在でした。レイバンのサングラスをかけ、細身のスーツを着た彼の姿はジャズ専門紙以外にもよく登場していました。彼が演奏するのは新主流派といわれたジャズで、フリージャズを手がけることは今まで一度もなかったのです。


その日野皓正が黒のトンビを羽織り、トランペットを持って現れたのです。彼と富樫は短い打ち合わせをして演奏を始めました。冷え切った空気がたちまちに暖まっていきました。
日野はその日近くの厚生年金ホールでリサイタルを開いていたそうで、終演後すぐに駆けつけたようでした。


その後の富樫の活躍については何も述べる必要はないでしょう。