7日にプーさんこと菊地雅章さんが、翌日には相倉久人さんが亡くなりました。十代の私が、何度も接することのあった人たちでした。
あの頃、私がよく行ったライブ・ハウスは新宿の「ピットイン」とお茶の水の「ナル」でした。浅草のはずれに住んでいましたので、「ナル」の方が交通の便がよく、そちらに足の向くことが多かったのかな。当時はどちらも曜日で出演者が決まっていて、好きなミュージシャンの演奏を毎週二回も聞くことができたのです。
プーさんのバンドは2キーボード、2ドラムスのセクステットとクレジットされていましたが、もう一人のキーボード奏者、プーさんの実弟の雅洋が来ることは、私の聞いた限りでは一度もありませんでした。
プーさんの弾くフェンダーローズが大好きでした。ピアノの音色を変えるためだけにローズを使う人が多かったのですが、それではあの楽器の魅力が半減してしまいます。オルガンのように、ロングトーンを多用する方がいいのです。ビリー・プレストンみたいにね。
「ダンシング・ミスト」何回くらい聞いたのでしょうか。あのローズのイントロに導かれて、2台のドラムスが入ってくるところのワクワク感、たまらなかったなー。
プーさんと話をしたことは一度もありません。いつも不機嫌そうで、それでいてぼーっとしている、そんな感じでした。バンドでは暴君だったようです。
プーさんのレコード、CDは結構持っていますが、一番聞くのはリーダー作ではない渡辺貞夫の『ペイサージュ』です。自分のセクステット(実際はクインテット)ではできなかった彼の目指していた音楽が、最良の共演者を得て実現できたのではないでしょうか。
ベースは、当時日本で暮らしていたゲイリー・ピーコック。ドラムスはプーさんのバンドの村上寛で、パーカッションがなんと富樫雅彦です。富樫は貞夫スクールの優等生でもありました。
ピーコックとはその後、テザード・ムーンというトリオを結成します。ドラムスはポール・モーシャン。ピーコックを若手のトマス・モーガンに替えたのが、現在のところプーさんの最後の作品となっている『サンライズ』です。このアルバムはモーシャンの遺作となりました。でも、プーさんにもモーシャンにも、衰えは一切感じられません。
相倉さんとは、プーさんとは違い、よく話をしました。相倉さんの方が、いつも話しかけてくれたのですが。
相倉さんの顔と名前だけはジャズ雑誌で知っていました。あの頃はジャズについての本はほとんど読んでいなかったので、彼の著作を手にするようになったのは大分後のことです。相倉さんは、私にとっては何よりも「ニュー・ジャズ・ホール」の支配人の、いつもニコニコしているおじさんでした。
「ニュー・ジャズ・ホール」は「ピットイン」の物置を改造したフリー・ジャズの定席でした。「ピットイン」でもマチネにフリー・ジャズをやることはありましたが、なにせお客は入りません。たぶん、誰かやってくれる人たちがいたならと、物置を提供してくれたのかななんて思っています。
もちろん、「ニュー・ジャズ・ホール」も閑古鳥が鳴いていました。それでも、相倉さんたちはいつも気持ちよく迎えてくれました。
「高校生?」「誰が好きなの?」「この人の演奏もとってもいいよ」などなど。
日本のジャズの現場を作り上げてきた評論家でもある二十歳ほど年長の男性が、高校生に話しかけ、きちんと応対してくれることに驚き、感動しました。こんな大人もいるんだ。
(今、席亭もしている私は、若いお客さんになるべく話しかけるようにしています。客引きに思われているかもしれないけどね。)
フリー・ジャズ、今でも好きです。