「墓碑銘はあなたが書いてくれるって、みんな思ってるみたい。それってずるいよね。」
「君はどうなの。」
「ずーっと先、私もあなたもお互いのことを忘れてしまったころにね、書店であなたの小説を見つけるの。手に取る前から、この本には私たちのあのころが書かれているんだってわかる、そんなのがいいな。」
68年ではなく70年に、こんな会話がありました。お相手は同じ高校に通った同い年のTさん。彼女は当時、浪人中でした。
私たちの高校は(私はその高校を卒業していませんが)小熊英二「1968」の高校闘争になんどか出てくる都立上野高校と同じ学校群で、私たちは学校群制度の第一期生でした。*1
上野高校では69年10月にバリケード封鎖があり、その結果実現した自主ゼミがマスコミの注目を集めていましたが、私たちの高校はその時期には組織化された闘争はなく、同人誌が乱立する文化爛熟期にありました。その同人誌も政治や文学に関するものではなく、後にいわれるサブカル系がほとんどでした。
その年の文化祭に吉本隆明の講演会がありましたが、生徒の企画によるものではなかったそうです。
「在校生に吉本の甥がいるので、来てくれることになったんだ。教師たちははりきっちゃって『共同幻想論』の読書会を開いたんだけど、所詮付焼刃で誰も理解できていなかったらしいよ。君にチューターを頼めばよかったのにね。」
と、親しかった司書教員は教えてくれました。
その後に起こったあの高校の叛乱については、私はその場にいませんでしたの、当事者であった彼(彼女)らが望んだという墓碑銘を書くことはありません。
小熊英二「1968」には都立白鴎高校の名前は記されていませんでした。