旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

ガツン!

読む本のほとんどが新刊の私でしたが、最近は再読が増え、ほぼ半々になってきました。
再読することによって理解が深まるとか、以前気づかなかったところが見えてくるとか言われていますが、私はそのような経験をしたことがありませんでした。せいぜい忘れていた細部を思いだすくらいで、再読によってその本の評価が変わるようなことはなかったのです。
これは読みやすい本だけを手にしてきたことと、私の成長のなさに原因があるようです。


しかし、ここ数ヶ月は再読した本に教えられることが増えてきました。それに伴い、再読の割合が増えてきたのです。
先日も(たった)一年ぶりに、高橋源一郎の「ニッポンの小説 百年の孤独」を読んでいて、こんな大事なことが書かれていたのかと、自分のうかつさと理解力の浅さに呆れるとともに、まったく違った本に接したような経験をしました。


私はこの本を、「死」に関する表現を考察することによって「ニッポン近代文学」の問題点を指摘した書物と理解していました。確かにそう読めないことはありませんが、それよりもずっと大きな問題をこの本は扱っていたのです。


内田樹の「他者と死者」に触れた「それは、文学ではありません」の章が「ニッポンの小説 百年の孤独」の眼目であることに、私は再読によって気がつきました。
ラカンの文体についてのシュナイダーマンの言及から、内田はヨーロッパの戦後世代が「『何か間違ったもの』(something wrong)が『文明の基盤』に潜んでいたこと」を知ったと指摘します。


ここからの部分に私はガツンとやられたのですが、今はまだそれをうまく表現できません。
でもねー、内田の「私家版・ユダヤ文化論」を読み、レヴィナスについても少しは知っていたのに、私いったい何を読んでいたのでしょうか。


しかし、少しは光が見えてきました。あとは時間との戦いです。


ニッポンの小説―百年の孤独

ニッポンの小説―百年の孤独