旭亭だより

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一気呵成に読む小説

「贋世捨人」

車谷長吉の小説は一気呵成に読むことにしています。そうしないと、彼の人を睨め回すような視線に、読者である自分までもが捕らえられてしまうよう気になってくるからです。


文春文庫の新刊「贋世捨人」を読みました。同じ文春文庫で「忌中」を読んだのはついこのあいだように感じられましたが、昨年の10月のことでした。
「贋世捨人」は主人公の大学入学に始まり、様々な職業を経て芥川賞候補となるまでが書かれています。この作品と併せて「赤目四十八瀧心中未遂」と「漂流物」を読むと、私小説作家、車谷のこの時期の生活がほぼたどれるようになっています。


先日、日本経済新聞社の社長をモデルとした高杉良の小説「乱気流」が名誉毀損で訴えられ、出版社と著者に対して賠償命令が下されました。
「贋世捨人」では何人かの作家が実名で登場します。全員物故した人たちですが、ちょっといい話の辻邦生は別にして、竹内好や後藤明正は気の毒な気がします。実際に彼らはそのようなことをしたのだ、と言われればそれまでですが、どうしても書かなければならなかったことでもないでしょう。
よく「小説家を友人としてはいけない」と聞きますが、まったくその通りです。
一読者としては、雑誌「現代の眼」を出していた現代評論社の内実を知ることができ、それだけでも面白い本でした。


一箇所、気になる表現がありました。
「それから」という酒場をやっている女性が「こんど私がこのそれからを立ち上げるについて」(150頁)と話すのですが、昭和50年にはこのように言う人はいないはずです。恐らく「このそれからを始めるについて」と言ったことでしょう。*1


登場人物の会話くらいでなんでめくじらを立てるのか、と思われるでしょうが、主人公の「私」は他者の言葉遣いに繊細に反応する人物として描かれているのです。*2
車谷は方言(「言うた」「思うた」など)や特異な言葉遣い(トイレットペーパーを「尻拭き紙」とするなど)をする作家ですが、それらは地の文に使われるだけですし、やや古風な言い回しは作品に味わいを与えているとも言えます。そういった面からも、この「立ち上げる」という今風な表現に、私はひっかかってしまうのです。

*1:私は「立ち上げる」という言い方が大嫌いなのですが、それで難癖をつけているわけではありません。

*2:同書180頁