旭亭だより

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竹内好による魯迅翻訳の問題点

新しい魯迅短編集を手にするとき、多くの人は、その中に「故郷」が収録されているならば、まずその末尾を読むのではないでしょうか。そして一言、「こなれた訳文ではない」。


藤井省三の訳による「故郷/阿Q正伝」(光文社古典新訳文庫)を読みました。そして私も同じことをしたのです。
竹内好訳の「故郷」は、高校の現代国語の教科書で取り上げられたこともあり(私も筑摩書房版教科書で初めて「故郷」を読みました)、愛好する人が大勢います。特に結びの部分は、訳文でありながらも暗唱されるほどに有名です。つまり名訳というわけです。それを引いてみましょう。

思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。

藤井訳ではこうなっています。

僕は考えた−希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど地上の道のようなもの、実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道ができるのだ。

藤井訳は歯切れがよくありません。そして前述の感想になるのです。


しかし藤井はあとがきで、竹内好魯迅翻訳の問題点を具体的に指摘しています。彼は竹内による翻訳を「魯迅文体および現代中国文化の日本への土着化」の最たるものとしているのです。
私が今までに読んだ藤井の著作は「村上春樹のなかの中国」(朝日選書)だけですから、彼の竹内批判に与することはしません。しかし、昨年読んだ子安宣邦の「『近代の超克』とは何か」(青土社)の好意的な視点も考慮に入れながら、竹内好という巨人について(やっと)考えてみたくなってきました。


故郷/阿Q正伝 (光文社古典新訳文庫)

故郷/阿Q正伝 (光文社古典新訳文庫)