旭亭だより

年金暮らし老人の近況報告です

壽阿彌眞志屋五郞作

昨日の便りに誤りがありました。壽阿彌の墓を詣でる老女、石を姪と書きましたが正しくは甥の嫁です。
壽阿彌について少々記すことにいたします。森鴎外の『壽阿彌の手紙』の冒頭にこうあります。
「わたしは澁江抽齋の事跡を書いた時、抽齋の父定所(ていしょ)の友で、抽齋に劇神仙の號を讓つた壽阿彌陀佛の事に言ひ及んだ。そして壽阿彌が文章を善くした證據として其手紙を引用した。」
手紙は文政十一年(1828年)に六十歳の壽阿彌が四十五歳の桑原苾堂(ひつどう)に書いたものです。鴎外はこれを印刻することも考えましたが、長文でしかも読みやすくなく「全文を載せる代りに筋書を作つて出すことにし」ました。それが『壽阿彌の手紙』です。
手紙には壽阿彌が文政十年七月末に愚姪方(ぐてつかた)で板の間から落ち両腕を痛めたと書かれています。鴎外はこれを姪の家と読みましたが、石刀自と会い甥と知りました。漢学者は甥を姪(でつ)と書くそうです。壽阿彌は妻帯はせず、妹の子三人に御家人の株を買ってやりました。その三男、久次郎が石刀自の夫です。
新石町(しんこくちょう)の菓子舗眞志屋の主、五郞作は剃髪し壽阿彌號を受け托鉢にも出ていました。八丁堀の二代目烏亭焉馬(うていえんば)の門に立った時の事を、假名垣魯文(かながきろぶん)が書き残しています。
眞志屋は小さな店でしたが水戸家の御用達でした。そのこともあり、壽阿彌は水戸侯の落胤であるとの噂もあったそうです。しかしそれは先祖の事と石刀自は語りました。眞志屋には八百屋お七の縫った袱紗も伝わっていました。